2025年 01月 14日
永井荷風の日記「断腸亭日乗」に描かれた麻布市兵衛町・偏奇館跡を訪ねてみた
麻布市兵衛町・偏奇館跡
年末年始の十日余りを東京で過ごしていた。小星宅の庭木の枝落しやら、雑草の刈取り、ランプの交換、大掃除などはいつものことだけど、年が明けたら…さて何をしようかと考えた。そうだ…永井荷風の『断腸亭日乗』に出てきた麻布あたりを散策してみようか、なんて思いついたのだ。そして一月五日に六本木駅を基点に、まずは麻布市兵衛町を目指して歩いて見たのだった。
六本木駅から歩き始めたわけは、昔(50余年前)この辺りがわたしの仕事の中心地だったことによる。街がどのように変貌したのか見たかったのだ。喫茶店アマンドのある交差点はとくに大きな変化は感じられなかったけど、記憶にあるアマンドと位置が違っていた(記憶の間違い?)。
さらに溜池方向に向かって気づいたことは、エライ坂道だなぁ…と思ったことだ。溜池から六本木の交差点に向って勾配の急な上り坂だったなんて、すっかり記憶から抜け落ちていた。麻布・六本木周辺は坂が多かったのね。
麻布市兵衛町・道源寺坂に向う道々、高層ビルがたくさんあることに驚く。さすがは東京だわい。京都の烏丸通り・御池通りとは規模が違う!
奥に見えるビルはいったい何階建てのビルを建てているのだろうか。
地図を見ただけでは分からなかったことが、実際自分で経験すると分かることもある。
荷風氏は、買物や食事で銀座や浅草などに出かけるのに谷町電車通り道まで道源寺坂を下ったり、上ったりしていたのね。
スペイン大使館前の交差点に案内図があった。よくよく見れば小さな文字で「永井荷風偏奇館跡」と書いてあるのが読み取れる(かなぁ?)。この案内図には助けられました ハイ。偏奇館跡に来る予定ではなかったのでナンも準備をしていなかったのよ ^^;
永井荷風・偏奇館跡(六本木一丁目)
かつてこの崖上の地にぺンキ塗りの偏奇館という洋館があった
それまで住んでいた築地二丁目の「路地裏の侘住居にも飽き」山の手の住居を探す荷風であった。好んで築地に移居し路地裏の隠棲を楽しんだ荷風であったが、度たび若い芸妓衆が押しかけてきたりして、小説を書くことも少なくなっていたようだ。また病弱な身体の荷風にはコレラやチブスの流行には神経質になったのであろう。荷風研究者-川本三郎氏が言うには、下町に心惹かれていたのに下町特有な濃密な人間関係が嫌になり、「家を定むるには貴族富豪の屋敷多き町内に如くはなし」、と荷風の言を引用し、勝手なことを…と紹介する。
そして二度ほど麻布市兵衛町の貸地を見る。大正八年十一月八日の日記には「此のあたりの地勢高低常なく、岨崕の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景」。重ねて十二日にも貸地を検察し、「帰途、氷川神社の境内を歩む。岨崕の黄葉到所に好し」とあるので麻布が気に入ったようで、翌日には「市兵衛町崖上の地所を借りる(筆者注・後に購入)ことに決す。…来春を待ち一蘆を結びて隠棲せんと欲す」とある。下町での隠棲から山の手での隠棲に意趣替えしたみたいである。
築地二丁目には、大正七年十二月から一年半住んでいたことになる。
荷風はお屋敷町、麻布市兵衛町で関東大震災を経験し、戦災で偏奇館が焼失するまでの二十五年間を過ごした。
関東大震災当日の日記より
大正12年9月1日
" さっそう雨やみしが風なを烈し。空折々掻き曇りて細雨烟の来るが如し。日まさに昼にならむとする時、天地忽ち鳴動す。予 初夏の下に坐し瓔鳴館遺草を読みゐたりしが、架上の書帙頭上に落ち来るに驚き、立って窓を開く。門外塵烟濛々殆ど咫尺(しせき-きわめて近い距離の意)を弁せず。児女雛犬の声頻りなり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが為なり。予もまたおもむろに逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまま表の戸を排いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺、さながら船上に立つが如し。門に倚りておそるおそるわが家を顧みるに、屋瓦少しく滑りしのみにて窓の扉も落ちず。やや安堵の思いをなす。
昼餉をなさむとて表通りなる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移しニ三の外客椅子に坐したり。食後家に帰りしが震動止まざるをもって内に入ること能わず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過ぎ、江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤坂溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南坂を上り、大村伯爵家の隣地にて熄む。吾 蘆を去ること僅に一町ほどなり。"
偏奇館は崖の上に建っていた
偏奇館で書かれた「日記」には「東京大空襲」が描かれている
毎日のように読んでいる荷風の日記「断腸亭日乗」。終戦前の昭和19年ー20年頃の日記には、夜間米軍の焼夷弾を受けて東京の浅草・銀座・新宿などや、近郊の工業地帯などが焼かれていることが記録されている。永井荷風の家「偏奇館」も昭和20年3月9日(実際は10日午前4時頃)延焼で焼けた。そんな時代だからか、延焼を防ぐため、強制的に木造建築の引き倒しがあったようだ。ちなみに京都市内の五条通り・烏丸通り・堀川通りなどが広いのもその理由による(平安京時代から広い通りではなかったのだ)。
3月10日の日記には、「町会の男来たり、罹災のお方は焚き出しがありますから仲の町の国民学校にお集り下さいと呼び歩む。行きて見るに、向い側なる歯科医師岩本氏及びその家人の在るに逢う。握り飯一個を食い、茶を喫するほどに旭日輝きそめしが寒風は昨夜に劣らず今日もまた肌を切るが如し、…
昨夜猛火は殆ど東京全市を灰になしたり、北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及び霊廟も烏有に帰す。明治座に避難せしもの悉く焼死す。本所深川の町々、亀戸天神、向嶋一帯、玉の井の色里すべて烏有となれりと云う。午前二時に至り寝に就く。灯を消し眼を閉じるに火星紛々として暗中に飛び、風声啾啾として鳴りひびくを聞きしが、やがてこの幻影も次第に消え失せいつか眠りにおちぬ。」
荷風は同じ年5月のある日、「午前麻布区役所に行く、その途次麻布市兵衛町の旧宅焼跡を過ぎるに兵卒の一隊諸所に大なる穴を掘りつつあり、士官らしく見ゆる男に問うに、都民所有地の焼け跡は軍隊にて随意に使用することになれり、委細は麻布区役所防衛課に行きて問わるべしと言う、軍部の横暴なる今さら憤慨するも愚の至りなればその儘捨て置くより外に道なし」と。
また5月8日の日記には、近日見聞録として「1, 川崎の町にて家を焼かれし人民焼け跡に小屋を立て雨露をしのがんとせしに、巡査憲兵来たりこれを取払んとせしかば忽ち衝突し、四方より罹災の人々集まり来たり憲兵数名に傷を負わせしと云う。深川辺にもこれに似たる事件度々ありし由。1, 東京市街焦土となりてより戦争の前途を口にする者憲兵隊に引致せられ、また郵書の検閲を受け罰せらるる者多しと云う…」
※荷風の文は、読みやすいように直しています。
偏奇館の東側には広大な住友邸があった。現在は泉屋博古館という美術館(京都鹿ヶ谷にも博古館がある)になっている。
泉屋博古館はあいにく休館。
荷風は腸は弱かったけど、意外に思うのは健脚だったのね…
だって浅草界隈を広い範囲で歩いたり、時には新橋から偏奇館まで徒歩で帰っているんだもの。
もう一つ下の階段にはエスカレーターまで付いていた。
最後に『断腸亭日乗』にはこんな詞が残されている。虫の声に敏感な荷風だけに…
鳴しきる虫の聲あまりに急なれば、
何とて鳴くや
庭のこうろぎ夜もすがら、
雨ふりそへば猶更に
あかつきかけて鳴きしきる。
何とて鳴くや
こうろぎと問へど答へず、
夜のみならで、
秋ふけゆけば昼も鳴く。
庭のみならで臺どころ、
湯どのすみにも来ては鳴く。
思い出しぬ。 わかき時、
われに寄り添ひ
わが恋人はただ泣きぬ。
慰め問へば猶さらに
むせびむせびて唯泣きぬ。
「何とて鳴くや
庭のこうろぎ。
何とて泣くや
わが恋びと。」
たちまちにして秋は盡きけり。
冬は行きけり。月日は去りぬ。
かくの如くにして青春は去りぬ。
とこしなへに去りぬ。
「何とて鳴くや
庭のこうろぎ。
何とて泣くや
わが恋びと。」
われは今ただひとり泣く。
こうろぎは死し
木がらしは絶ゑ
ともし火は消えたり。
冬の夜すがら
われは唯泣く一人泣く。
「恋びと」とはイデスのことだろうか…
【参考図書】
永井荷風『断腸亭日乗』ほか
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